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なぜ犯罪心理学がうけるのか

犯罪心理学会の会員数が念願の千人超えをしてから久しくなりますが、その後も会員数は着実に増え、現在も増加傾向にあります。非行や犯罪の認知件数は毎年どんどん減っているのに、どうして本学会の会員数が増えているのか不思議と言えば不思議な現象です。公認心理師の受験科目に司法・犯罪心理学が加わったためだと思う人もいるかもしれませんが、会員数増はそれ以前からの現象です。その背景に、密やかながら根強い、日本における犯罪心理学人気というのがある、と私は思っています。

たとえば、大学で犯罪心理学の講座を開くと受講者がたくさん集まります。もっと一般的には、ミステリー小説の多くは犯罪ものです。そこには謎やトリックといった犯罪が容易には発覚しない知恵や仕掛けがあったり、あるいは謎解きのさいの爽快感や心を打たれるような犯罪動機が明らかになったりといった要素があり、それらが小説や映画を鑑賞する者にとって大きな魅力となります。でも、これらは犯罪を題材とした作品としての魅力です。

現実問題はどうでしょう。私の経験では、そのような知的ゲームとしての犯罪はきわめて少なく、実際にはもっと衝動的で、犯罪者本人ですら自分の行為をうまく説明できないことが常です。かつて、犯罪精神医学の小田晋氏は『人はなぜ犯罪を面白がるのか』(はまの出版)という本の中で「日本人の場合、清める必要のあるものが罪だ」と述べています。つまり、日本人にとって犯罪とは、犯罪統計に表れる“定義化された犯罪”を指すのではなく、もっと倫理的で主観的な事象であろうということです。われわれが犯罪心理学を魅力だと思うのは、どうもこうした主観的な罪意識への関心ではないでしょうか。犯罪とは、倫理的にはあってはならない出来事であり、われわれの日常から遠く退けておきたい“
穢れ”なのです。少年院や刑務所を造ろうとするときに地域住民が反対するのは、自分たちの日常に穢れを持ち込みたくない心理によるものです。

ところが、そう願いながらもどうでしょう。日本人は、法事や季節の変わり目や、あるいは朝晩にさえ事あるごとにお清めをしたがる清め好きな民族ではないでしょうか。それは、日本人が極端に穢れを嫌うという意味もありますが、それだけ穢れが日常的であるとも言えます。お札をスタンプラリーにしたり神社仏閣をパワースポットとしたりするのは、おそらくお清めを現代風にアレンジしたものでしょう。これらが流行るのも日本人らしさの表れでしょう。

穢れと見なされる犯罪を“ヨソの出来事”として遠くに追いやりながら、実は一番身近なものであるという逆説に日本人の本質が隠されているのかもしれません。犯罪は得体のしれない内なる“畏れ”なのです。容易に見えない人の心の本質に迫ろうとする犯罪心理学にこそ魅力があるのでしょう。NHKの朝ドラ『カムカムエブリバディ』でよく出てきた「暗闇でしか見えぬものがある」という名セリフは、ひょっとしたら犯罪心理学のことを指すのかもしれない、と当時ふと思ったものでした。(岡本吉生)

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